5週目です。
地方はそろそろ上映終了とか。
でも、東京23区内繁華街の映画館の週末は、まだまだたくさん入ってます。
私が週末行った時も、ほぼ満席でした(ぽつぽつしか空席なし)
雰囲気でかなりリピーター率高し、とみました。
今後も都内のどこかでやっていたら、足を運ぶ人多いと思います。
そして、こうなってくると欲も出てきます(笑)
週末に、ドラマ版全6話プラス映画版上映、などという企画モノをやる映画館が出てきてもいいんじゃないでしょうか?
オールナイト込みで日に2回くらいしか上映できないかも、ですが。
でも、入場料設定が高めでもきっと来る人はいるぞ!とみました(かくいうワタクシも!(大笑))
東宝さん、NHKさん、映画館のみなさま、ご考慮お願いします!!
当ブログは純粋な映画レヴューではありませんが、映画「ハゲタカ」の内容に結構踏み込んでおりますので「ネタばれあり」の「注意喚起」をさせていただいております。
2008年、秋。
「今回の金融危機はすべて、青い眼で白い肌のCEOたちに責任がある!」
と過激な発言をしたのは、ブラジルのルラ・ダ・シルバ大統領。
たしか、金融危機対応のためにG8じゃ間に合わん、ということで新興国も入ったG20金融サミットが開かれた11月15日前後のことだったと思います。
ルラ大統領のこの発言は「人種差別的」と逆差別レッテルを貼られてしまい、彼は早々に謝罪するはめに陥ったのですが、
「新興国ならびに開発途上国が、先進諸国に対して、猛烈に怒っている」
ということがはっきり示された機会でもありました。
いまや、開発途上国と先進諸国のあいだに大きな断絶が横たわっているのは明白です。
先進諸国がこれまでやりたい放題をしてきて、その「欲望」がついには危機的状況を呼びこんで、世界的な金融メルトダウンの淵まできた。
だが、いったん危機が始まれば、一番弱い部分にその「負荷」が強烈にかかってくるのが、「グローバリズム」で結ばれた現在の世界。
世界的不況が始まって、飢餓線上に陥る可能性も出てきた開発途上国の人々。
彼らが「もはや泣き寝入りする気は全然ない」と猛烈に主張し始めた。
言ってみれば、貧困から抜け出すために、
「その車に乗せてくれ」
と言い始めたこと。
でも、間違った車に乗り込もうとしていたら、どうするのか?
あるいは、車は正しくても、その車を作る方法が間違っていたら?
売る方法が間違っていたら?
先をゆく者たちが、自分たちの失敗を、あとから来る者たちに伝えられない。
彼らが選び間違えていても、そのことを彼らに伝える機会がない。
たとえ世界中に公害に苦しむ都市が生まれ、貧困のスラムが生まれ、絶望的な格差社会が生まれても…
その「絶望的な分断」が、現在の世界を支配している。
ルラ大統領、あなたは概ね正しい。
ただ、「青い眼で、白い肌のCEOたち」だけではない。
その責任は「黒い眼で、黄色い肌の社長たち会長たち」にもあるのだ。
そんな風に、私は思いますが。
日本はかつて第二次世界大戦で無謀な戦いをして、主要都市を「焼け野原」にするという愚行のすえ、敗戦。
戦後の復興はもう二度と戦争をしない、というところから始まった。
「けして人を殺さないで強くなること」
それはつまり、
「戦争をしないで経済的に繁栄すること」
日本の一大テーマだった。
そのポリシーに従って、日本は今日までやってきたわけです。
そして、世界2位の経済大国、先進諸国の一員となった。
確かにこれまでのところ、日本は国内をふたたび「焼け野原」にしないですんでいる、幸いにも。
でも、一旦、日本国外に目を転ずれば、実は「焼け野原」は世界の隅々に出現している。
よく知られていることですが、アメリカが開発し、グローバリズム推進の道具としてきた「金融工学」は、実は「東西冷戦の兵器」のなれの果てです。
アメリカがソ連と「冷戦」を戦ってきた時代。
戦争(特に核戦争)のためのシュミレーションをやるために、大量の数学やらシステムやらが動員され、人的にも財政的にもたいへんな資源・資金の投入をおこなってきたわけです。
ところがソ連が崩壊、ロシアも東ヨーロッパも共産主義を捨て去って、資本主義陣営に参入してきた。
もはや冷戦シュミレーションは無用の長物。
なのに、人間も組織も大量に存在している。
そこで、金融界に転じて、軍事の民生転用をすることにする。
そして誕生したのが「金融工学」
その「金融工学」が生み出した「証券化」の魔法が、アメリカを並ぶもののない世界ただひとつの「超大国」にしたわけですが、同時に、それは一種の砂上の楼閣、ひとたびバブルがはじけ飛んだら…
世界を巻き込んでたいへんなことになっているのが、現在。
やはり、これは「兵器」なのですから。
富を収奪する兵器。
疑いもなく、
世界に「絶対的貧困」という「焼け野原」を出現させてきた兵器。
その「金融工学」に力を貸してきた日本が、「責任ない」とは絶対に言えない。
それを日本経済の「罪」というか。
あるいは、先進諸国の「罪」というか。
その「罪」から、目を背けることはできない。
鷲津政彦の壮絶な人生に、またひとつ付け加わってしまった、と人は言うでしょうか。
鷲津さんファンとしてはその痛ましさに胸が詰まりますが…
しかし、彼は絶対に目を背けない。
だから、映画ラスト、劉一華の故郷に見届けに行く。
ふつう、日本人なら見たくないもの、知りたくないもの、
自分たちが作り出した「焼け野原」を。
ひとり、荒野に立つ鷲津の眼に映ったものは何だったのか。
過去、無謀な戦争をして焼け野原になった日本国だったのか。
あるいは、現在、世界中に存在する、絶対的貧困の焼け野原だったのか…
しかし、未来。
ふたたび日本が「焼け野原」になることはないと、いったい誰に言えるだろうか…?
なにも日本国の外だけではなく、国内だって同様なのです。
「ハゲタカ」ドラマ版ではラスト、熟練工の加藤と協力して新会社を立ち上げるのに、映画版の中で、鷲津や芝野はついに派遣工の守山に直接会う機会はない。
それどころか、守山は加藤にあたる人物に出会うことさえできない。
「部品」として消耗され、同じ国に生きていながら、まるで存在しないかのような扱われ方をする存在。
本当は加藤のような人たちの「後継者」にならなければならないはずなのに。
そんな状況で「日本の本業はモノ作り」と言ってみても、虚しいだけ。
はっきり言って、これはもの凄くマズイ状況です。
映画「ハゲタカ」では、守山の最後は「アカマの赤い車」に乗って何処ともなく去っていきますが、これは守山が劉の「願い」を受け取って新しいスタートを切った、と解釈していいものか。
それとも「日本人の夢と希望の象徴だった赤い車」はその後継者となるべきだった青年とともに、何処かへまぎれて消えていってしまった、と解釈していいものか。
私には、今は、決めかねます。
はっきり言って、楽観的と悲観的、天と地ほども違う解釈ですが。
映画「ハゲタカ」公開の少し前。
カントクだったかプロデューサーだったか、制作された方が、
「安易な解決は描けない。現実が厳しい状況だから。でもその中で観終わって元気になるものを」
というような内容のことを言っておられたかと記憶しています。
経済的に厳しいということだけじゃなく、分断されて、けして交わらない状況が厳しい。
永遠の断絶感。
国内でも国外でも、それが溢れている状況が厳しい。
この映画をラストまで観て、そう思います。
回数を重ねて観るほどに、本当に思います。
なんとか、この状況の「ブレーク・スルー」を見つけ出せないものかと、切実に思います。
おそらく、映画の制作者さまたちもそう思っておられるのだと痛いほどわかります。
そして、
映画の中の鷲津も。芝野も。
きっと。
芝野に言わせてますよね。
「このまま終わってたまるか。まだまだこの国は捨てたもんじゃない」
だから、もう1本作ってください!!
この映画「ハゲタカ」の続きを。
また数年後に。
鷲津が見つめている先が観たいから。
どんな厳しい未来でも、きっと彼は眼を背けない。
きっと彼は立ち向かっていく。
新しい方法を見つけ出していく。
そして。
彼の行く道は、私たちの行く道。
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